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H-1 (ロケットエンジン) : ミニ英和和英辞書
H-1 (ロケットエンジン)[えいち1]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


H-1 (ロケットエンジン) : ウィキペディア日本語版
H-1 (ロケットエンジン)[えいち1]

H-1 エンジンは推力200,000 lbf (890 kN)の液体酸素/RP-1を推進剤とするロケットエンジンで、ソーデルタロケットジュピターロケットの1段目に使用された。簡略化してサターンIサターンIBS-IBに搭載された。
サターンIBには8基が束ねられて使用された。後に推力が205,000 lbf (912 kN)まで増強された。H-1の経験はF-1エンジンの開発に役立てられた。
==歴史==
それぞれの新型エンジンの開発はそれらを搭載するロケットの開発に数年先駆けて始まった。サターンロケットといえども例外ではなく1957年の時点で既に最初の仕様書が書かれていた。初期の概念の時点では当初サターンはスーパージュピターと呼ばれていた。1957年、ARPAは打ち上げ能力9000 kgのロケットの調査を進めていた。陸軍弾道ミサイル局(ABMA)のフォン・ブラウンのチームはそのような規模のミサイルには推力150万ポンド(~ 6.7 MN)が必要だと見積もった。スプートニク1号の打ち上げの後、新型ミサイルの開発が開始され、スーパージュピターの概念の仕様が策定された。1957年スプートニク1号の打ち上げの後アメリカは即座に非軍事用の宇宙機関の設立を計画し、NASAが設立された。陸軍が大型ロケットへの関心を失ったのでフォンブラウンの陸軍弾道ミサイル局(ABMA)のチームはNASAのマーシャル宇宙飛行センターへ移った。1960年に移管された。
この計画が出来てまもなくARPAがABMAを訪問してフォンブラウンにまだ移管前に消化すべき1千万ドルの予算がある事を告げた。彼等は移管前に何か有効な使い道はないか尋ねた。フォンブラウンはKoelleを呼びジュノーVの模型を見せたがARPAの訪問者達はE-1エンジンは1960年には間に合わないだろうと記し、彼等は最も良い解決策はロケットダインの既存の推力175,000  lbfのエンジンを200,000 lbfに強化する事でこれら8基で計画中のE-1の4基の代替とする事だった。開発の入札がまもなく行われ契約されABMAのジュピターミサイルの設計は1958年末に"ジュピターの先の惑星"という意味でジュノーからサターンに改名された。ロケットダインは当時E-1だけでなく空軍の要請で開発中だったE-1、F-1やフッ素を酸化剤とするG-1やH-1となる新設計等、複数のロケットの設計案を持っていた。
Heinz-Hermann Koelleは後にサターンとなるこのロケットの計画を立てた当時、彼はロケットダイン社のE-1を4基使用する案を選択した。
ロケットダインはこの推力のエンジンをタイタン用に開発中でARPAの依頼でフォンブラウンが開発した"ジュノーV"として知られるロケット用の当時入手し得る最も強力なエンジンであった。フォン・ブラウンはF-1の採用を検討していたが当時はまだ初期の開発段階で時期尚早だった。F-1とE-1は似ていたが出資者であるARPAは1960年までE-1エンジンの展開を提供しなかった。計画では地上試験は1959年末に実施される予定だった。従ってE-1エンジンは既存のエンジンを元にした8基の低推力のエンジンに置き換えられた。ロケットダイン社はソーとジュピター弾道ミサイルに使用されていた古いS-3Dエンジンを原型として選んだ。ロケットダイン社にはロケットエンジンの設計の経験があり、第二次世界大戦以来、空軍と陸軍への主要な供給社の一つであった。最初の試作機は1958年12月31日に試験に合格した。1958年5月には初号機がABMAへ納入された。1年後(1960年4月から5月)に全8基の接続を含む地上試験が行われた。
1957年スプートニク1号の打ち上げの後アメリカは即座に非軍事用の宇宙機関の設立を計画し、NASAが設立された。陸軍が大型ロケットへの関心を失ったのでフォンブラウンの陸軍弾道ミサイル局(ABMA)のチームはNASAのマーシャル宇宙飛行センターへ移った。1960年に移管された。
この計画が出来てまもなくARPAがABMAを訪問してフォンブラウンにまだ移管前に消化すべき1千万ドルの予算がある事を告げた。彼等は移管前に何か有効な使い道はないか尋ねた。フォンブラウンはKoelleを呼びジュノーVの模型を見せたがARPAの訪問者達はE-1エンジンは1960年には間に合わないだろうと記し、彼等は最も良い解決策はロケットダインの既存の推力175,000  lbfのエンジンを200,000 lbfに強化する事でこれら8基で計画中のE-1の4基の代替とする事だった。開発の入札がまもなく行われ契約されABMAのジュピターミサイルの設計は1958年末に"ジュピターの先の惑星"という意味でジュノーからサターンに改名された。ロケットダインは当時E-1だけでなく空軍の要請で開発中だったE-1、F-1やフッ素を酸化剤とするG-1やH-1となる新設計等、複数のロケットエンジンの設計案を持っていた。
最初のサターンIは1961年10月に打ち上げられ、全てのエンジンは正常に作動した。4回目の打ち上げであるSA-4ではエンジン故障の試験が行われた。意図的に1基のエンジンを停止して制御システムは残りの必要な軌道へ投入するために残りの7基のエンジンへ推進剤を供給した。6回目のA-101でも同様の事例が起きたがこの時は意図しないものだった。1基のエンジンのターボポンプが故障して停止したので残りのエンジンで補わなければならなかった。
H-1エンジンは生産段階に入ってからも推力を増強するように改良された。サターンIは当初推力734kNのH-1エンジンを搭載していたが後に推力836 kNに増強された。サターンIBは最初の5回の打ち上げでのエンジンの推力は890 kNだったが、最後の打ち上げである1975年7月15日のアポロ・ソユーズテスト計画でのサターンIBでは最も強力な推力912 kNのエンジンに換装された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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